私の蔵書に、エリノーア・タッパー、G・E・マックレイノールヅ共著、辻重四郎編訳『アメリカの對日輿論』(大雅堂)という、昭和21年12月初版の本があります。「共同通信社調査部」のゴム印が押されているのが見えますでしょうか。

この本の序文に、かつて米国が対日戦争以前に抱いていた対日輿論の流れが、簡潔に記されています(パソコンにない旧字体がいくつかあり、新字が混じっている箇所がありますがご容赦ください)。
「本書引用の資料に依りて明かなるが如く、日本に對する米國の輿論は、他國に對するその表現と同樣に常に首尾一貫してゐる。米國民衆は合衆國の傳統的極東政策を支持して來た。而してその政策を日本が脅威したる時、並に武力主義及び帝国主義を以て米國の國家的理想に挑戰したる時、これを糾彈したのであつて、日本人に對し不變の敵對心を包藏(ほうぞう)するものではない。
否それ所か、一九〇五年迄の日米兩國は、ロマンティックな友誼の紐帯で結ばれてゐたのである。而してその年以來人種問題及び支那政策上の衝突に基く抗爭の時期が、親善の時期に點綴(てんてい)する所となつたが、反對は日本政府の武斷行動及び政策に對するものであった」(同書P.4より引用)
これも大切な論点ですが、今回取り上げたいのは、当時の中華民国の動きです。同書に、非常に注目すべき記事が書かれています。
「一九三六年夏、加州ヨセミテ國立公園に開催の太平洋問題調査會會議は極東研究者の少數のグループのみ興味あるものであつた。同議會出席の日本代表の一人が、日本の對支政策の過失を認めた半公式陳述を爲したことは、米國新聞紙の注意を喚起し、希望を繋いだが、その徴候も日本側が支那にも過失ありと攻撃し、且(かつ)支那側代表胡適博士が日支紛議は、戦爭のみこれを解決し得ると陳述したので、轉覆(てんぷく)されて終わつたと新聞紙は指摘した。大多數の代表は太平洋集團補償實現の前に、先ず特に日支兩國の國家的調整が必要なりとの意見に一致し、二週間に亘る討議も、何等結論的な又は有望なる空氣をも作らずして閉會したのであつた。(一九三六年十月號カレント・ヒストリー誌)」(同書、P.204より引用)
つまり、1936年夏にカリフォルニア州で行われた太平洋問題調査會の席上で、日本代表の一人が、当時の日本における対支那政策について「過失を認めた」。ところが、日本は「支那にも過失があると攻撃」。これに対し、中国代表の胡適が「戦争しか解決方法はない」と語り、同会議は膠着状態に陥ったというわけです。
正確なことは、1936年10月号「カレント・ヒストリー」誌の原文などを確認しないとわかりませんが、この会議の席上で胡適が、「日支紛議は、戦爭のみこれを解決し得る」と発言していることは注目されます。
こうした記事の存在は、 「日中戦争は、中国に対する日本の一方的な侵略」だという、われわれが学校で教わってきた歴史教科書のお決まりの文句が、どれだけいかがわしいものかが窺い知れる、一つの傍証になるのではないでしょうか。
この本の原著がアメリカで出版されたのは昭和12年9月ですが、編訳者は翻訳版を日本で戦前に出版し、米国輿論の理解を促したいとの思いを持っていたとのこと。
「米國を正しく理解し、米國輿論を正しく考察することは前述の如く寔(まこと)に困難のことではあるが、日本國民としてはこの仕事を困難だといつて顧みないではゐられない。私はかゝる仕事に資したいとの念願から數年前本書の出版を企圖したが、書中の多くの箇所が當局の忌憚に觸(ふ)れてその意を果たし得なかつた。それから後に日米戦争が勃發した。私は寔(まこと)に感慨無量であつた」(同書・編訳者序より引用)
なんとも感慨深い、歴史の一証言ではありませんか――。


by その蜩
ODAだ何だの前に、自国の経…